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by Y. Ise





True-man's Truth


「結末が決まらないんだ」と彼は言う。「あの夜何があったのか〔彼〕の口から聞かないことには」
そしてついにその〔彼〕から殺人が行われた状況を聞き出す。 しかし、それでも彼の本は完成しない。
「エンディングが決まらないから」
彼の言うエンディングとは2人の殺人犯の死刑執行である。 彼らが死んで初めて彼の本は完成する。2人の死をひたすら待つ作家。その葛藤に寒気がした。その正直さに、である。道徳や教条や良心に、ではない、己の芸術に対しての、である。


全編息が詰まるような思いで見た。自分にとってカポーティは新しい作家ではない。『冷血』は20歳のころ文庫で翻訳を読み、数年前に原作を読んだ。他の小説も読んでいるし、伝記、インタヴュー集、さまざまな雑誌の特集記事も読み、それなりの作家像ができていた。『冷血』をどのように彼が取材したかも把握している。この映画のストーリーは既知のものだし、しかもドラマとしては犯人の絞首刑執行、という結末も知れているのだ。カードはすべてテーブルの上に出ている。


その上で見ている自分のこの緊張感はどうだろう?すべてはスクリーンに登場する俳優たちが作り上げる「場」の緊張感なのだ。彼が次に何をするか、何を言うか、これほど集中して見た映画は最近なかった。「背景音楽」のない演出がセリフのひとつひとつに神経を集中させることになった。


たとえば冒頭の事件発覚のシーン。スクリーンに現れた1959年11月15日の日付。事件は確か14日ではなかったか・・・?応じる声のない玄関のドアを少女がノックしている。だたっぴろい平原にぽつりと建つ白い家。少女はドアを開ける。彼女の呼びかけだけがしんとした家に響く。その頃にはわかっている。この日付、これは事件の翌日なのだ。この少女は第一発見者なのだ、と。恐怖を煽るような音楽はない。ただ彼女の足音と床がきしむ音だけ。画面は何も見せないのに、見るものの想像力がこれから彼女が遭遇する凄惨なシーンを脳裏に映し出してしまう。


またカポーティがアルヴィン・デューイ捜査官に事件現場の検死写真を見せてもらうシーンもそうだ。息を殺しながら写真を見つめるカポーティの視線は我々の視線そのものだ。俳優のアップと息遣い、幾枚かの遺体の写真だけで一点に圧縮されたような場の空気を作り出す。後に展開する殺人犯ペリー・スミスとの監房でのインタヴュー・シーンはすべてこの手法である。


そして対照的な「社交」生活。彼の内面と対外的な言動がくっきりと際立っている。この多層的・多重的な、あるいは相手によって巧みに自分を変化させて事にあたる彼のすがたはカメレオンのようだ。開けっぴろげに語りながらけっして尻尾をつかませない、そんなところがある。


ラスベガスで逮捕された犯人ペリー・スミスとリチャード・ヒコックがカンサスに移送されてくる。彼はスミスを食い入るように見つめている。何も見逃すまい、聞き逃すまいという執念。


この映画で個と個としてカポーティがスミスと初めて身近に会うシーンがある。スミスは拘置され檻の中、カポーティはその外だ。スミスは殺人というボーダーを越えてしまった人間、「あちら側」の人間であると強く意識したシーンである。後にカポーティは2人を隔てる鉄格子をくぐり、檻の中に入っていくことになる。スミスを通じて人があちら側に行く理由をとことんまで解明したいと思ったのだろう。こちら側にかろうじて片足をかけながら彼はボーダーを越えようとした。


彼は裁判を傍聴し、隣人たちにインタヴューしていく。明らかに異端である彼は最初なかなか受け入れられない。しかし彼の率直さ、相手の急所を即座に見抜いてその感受性に訴えるやり方で、すぐにそんな警戒をといてしまう。彼は人が最も欲しがる「自分への理解」を嗅ぎわけ、相手の心情・意向にそって巧妙にそれを与えることができる。ただし自分が相手から何かを引き出したい、と思った時だけだが。


予想通り死刑判決が下され、刑務所に収監されたスミスとヒコック。カポーティは刑務所長を買収し、いつでもスミスと面会しインタヴューできるように画策する。食事を拒否し自殺傾向の高まるスミスを自ら献身的に看護するカポーティ。「今死なれては困る」。それが動機だっただろう。しかし一方で目の前にいる「見捨てられた子供」であるスミスにベビー・フードをひと匙ひと匙食べさせてやるカポーティの確信に満ちた表情はどうだろう。ベビー・フード。母親が子供に与えるもの。捨てられた子供である彼が切望したもの。あるいはほんの幼い頃、母が食べさせてくれた思い出があったのかもしれない。彼は確かに「味」を選んでいたから。


スミスの信頼を得た彼は頻繁に彼に面会し、インタヴューを重ねる。画面からは作り手のペリー・スミスへの危険な共感が感じ取れる。彼が描いたスケッチを随所に映しこみ、その才能を暗示している。


小説は徐々にかたちをとり始め、やがてその成否が一点に絞られていく。あの夜なにが起こったのか、スミス自身に「殺人の理由」を語らせること。それがカポーティの言う「結末」だった。しかしスミスはなかなかそれを語ろうとしなかった。カポーティが書いた同情的な記事が陪審の心証を良くし、死刑をまぬがれるのではないかと期待するスミスに「まだ一言も書いていない」と嘘をつき、冷たく突き放す。突き放せばきっと彼のほうから近づいてくる、なぜならスミスにはカポーティしかいないから。彼はおそろしいほどこの死刑囚の心理を読んでいた。スミスがカポーティに寄せる信頼と理解・友情への期待。そう仕向けたのはカポーティである。スミスは彼の「金脈」だったから。


NYでの朗読会は大盛況、カポーティは成功の予感に酔いしれる。控訴は却下され、いよいよ2人の死刑が確定したと知らされた彼はスミスへの最後のインタヴューを行うためランシング刑務所に向かう。しかし2人は最高裁に訴え、刑執行は再び延期されたことを知る。


苛立ちを隠さずスミスに対するカポーティ。自分を利用したのか、君を友人だと思っていたのにと詰め寄るスミスに作家はそうありたかったと吐露する。


終盤、カポーティはスミスの姉にインタヴューする。弟を切り捨てた姉の言葉。その後再び刑務所を訪れ、「姉さんは君に会いたがっていた」と偽るカポーティ。スミスは肉親の情に動かされたのか、ついに事件当夜のことを話し始める。「この人の良い紳士は自分が彼を殺すのではないかと恐れている、そう感じたとき自分自身を恥じた」その恥辱か屈辱か―を打ち消すためにナイフは犠牲者の咽喉をかき切った・・・。殺人シーンはいきなり、まさに暴力的に見るものに突きつけられる。クラッター家の4人を次々と襲うシーンは短いカットをすばやく切り替えながらわずか20秒で終わる。カポーティが切望した『冷血』のエンディングであった。


やがて最高裁への再審請求も却下され、2人の死刑執行日が決定した。彼が本当に望んだエンディングへの長い時間。すでにアルコールとドラッグが彼を侵食し始めていた。スミスは最期に彼に面会を求めてくる。彼は自分のしたことに直面できず逃げ続ける。しかしついに決意し面会に向かう。最期の言葉を交わし死刑執行に立ち会う。あれほど望んだ刑の執行である。そこで自分が望んでいたものの残酷さを知り、激しく動揺する。


ハーパー・リーに彼は訴える。
「彼らを助けたかったのにできなかった」
しかし全てを理解する彼女は言う。
「助けたくなかったからよ」the fact is you didn't want to.
カポーティの正体を暴くかのような決定的な言葉だった。


彼はこのカンサスでの事件が起こるずっと以前からこの小説の構想を持っていた。事件の第一報が報じられるや否や、彼は即現地に飛び取材を開始している。その時彼はすでに『冷血』を書いていた、彼の頭の中で。その小説にはすでに結末まで用意されていたはずだ。彼はただそれにふさわしい事件が起こるのを待っていたのだろう。事件を取材するにつれその予感は確信に変わり、彼は殺人犯にのめりこんでいく。映画は「これこそ自分が長い間書きたかったことなのだ」と言わせている。1924年生まれの彼は事件が起こったとき35歳。人生で最も充実した盛りの数年間を彼はこの『冷血』に捧げた。


「水面下で起こっていることを考えながら見てほしい」と監督ベネット・ミラーが言っているように、こちらにどんどん深読みを迫ってくる構造の映画である。何が語られたか、と同時に何が語られなかったかも大事だというのである。スミスや周囲の人たちに対して軽々と嘘を吐くカポーティ。その嘘の裏にある彼の真意を考えざるを得ない仕組みなのだ。


しかしカポーティに興味のない人にとってはただのへんな喋り方をするエキセントリックな作家が怖い殺人事件を取材して犯人と親しくなる妙な映画だろうし、最後に眼を覆いたくなるような死刑シーンが出てくるこわい映画でしかないだろう。あるいはここで『冷血』の執筆の一部始終を見せてくれると期待していた人たちにとっては肩透かしを食らわされたような気になる映画だろう。(この映画は創作クラス向けではない)


しかし『冷血』に魅了された人たち、作家を「知っている」と自負する人たちにとっては自家中毒を引き起こすような映画だと思う。書くという行為に何らかの価値を見出しそれに耽ったことのある人たち、あるいはそれを生業としている人たち。何かを「創造」していると自負する人たち。きっとスクリーンの彼に自分を投影しあれは自分だと思って見ていたはずだ。彼はどこまでいくのか、どこまで遠く、どこまで深く。その行き着く先を見たい、という欲求。スクリーンに展開するドラマを見ながら、一方で語られない部分、聞こえない部分を補うために頭は高速回転し続け、終わったときには疲労困憊していた。


映画が終わってからも『冷血』『カポーティ』を追う作業は続いている。





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